メインの内容へジャンプ 新しき村

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新しき村の歴史(昭和)

1927年
(昭和2年)

○大人36人、子供5人合計41人。

○大水路の改築工事は前年困難なトンネル部分を終わり、精密な調査に基づき工事を進めた。

○米3反畝籾12俵、麦1反5畝、野菜沢山、秋2反5畝開田。梨1反5畝、桃5畝、馬2、鶏25。

○養鶏通信(9月)労働時間160時間。全産卵数107個。用途食堂及び家族54個、病人及び来客37個、種卵用10個、破損2個残り4個。今の村ではメス100羽あれば自給自足に充分だと思う。

○毎月1日村では例会を開き、仕事の打ち合わせや報告を行った。また毎週木曜会を開いて勉強した(河村昇が係で熱心だった。.)。

○「大水路」の改築と「水路小屋」ができる。米12俵、麦、野菜たくさん。2反5畝開田。梨1反3畝、排5畝。

○2月、実篤東京に住む。第1回新しき村展を新宿紀伊国屋で開く。

1928年
(昭和3年)

○大人33人、子供5人合計38人。

○春4反開田、秋4反開田、水田1町作付、米60俵、麦1反5畝、野菜たくさん。

○自分が村にいた頃は、ややもすると、自然に人力がやられ気味で、開墾の余力がなかったが、この頃はどんどん開墾が兄弟の手でやってゆけているのを心丈夫に思った。この様子では23年ならずに自活が出来、あとは目に見えて発展してゆくことと思う(通信54号「村へ来て」実篤)。

○12月実篤を迎えて10周年祭を盛大に行う。会員倍速運動起こる。

○有楽町に「新しき村の会場」を作り、毎月のように講演会、室内劇、毎週座談会を開く。

1929年
(昭和4年)

○大人27人、子供4人合計31人。

○米110俵、麦1反5畝、野菜たくさん、梨70貫、桃10貫、開田6反。

○馬2、牛1、犢1、鶏51、老馬死、犢売却。

○動力室4坪、タービン水車、促成栽培用の枠及び障子12坪、籾貯蔵所増設、堆肥増産、多肥も実施、12年目にして農業はようやく地についた生産をはじめ、労働能率も向上して来た。

○この年は実篤の収入が悪くなり、村の経済は苦難に直面した。それだけ人々の決心は強まり、村内では「日向新しき村の自活計画、1930年-1934年、5カ年間の収支予算表」を提唱、全会員の協力で村を発展させようとうったえた(発表は30年1月)。

(当時村は月に300円、一人当たり12円程度の外からの応援が必要で、その大部分を実篤が責任を持ち、この年も外から応援は約4,000円だった。この計画を実行するには第1年度に5,000円の応援が必要だが、第2年度は2,300円程度になり、毎年少ない応援ですみ、5年度には不十分ながら自立に達するというもので村内が一定の力を持ちつつければ、さして実現困難なものではなかった。)

○「新しき村」満10年。佐藤春夫が発起人となり、文壇・画壇69氏の作品を集めた「十年」(改造社)を出版、その印税を村に寄付。

1930年
(昭和5年)

○大人19人、子供5人、合計24人。

○米150俵、梨250貫、麦4反、排25貫、茶蒔付4反、馬1、牛1、鶏62。

○タービン水車によって先ず電灯工事を進める。

○4月に村の大部分に点灯した。

○鶏舎3坪をつくる。養鶏は利益を全部進歩の費用に当てるため、独立経済とし、採算はとれたが、結局大きく成長するまでにはのびなかった。

○馬1、牛1、鶏5~60。

○水田1町8反5畝、籾150俵。1版弱に多収栽培を試みる。

麦4反、野菜1反、促成栽培12坪、油菜1反をつくる。

○梨園2反を開墾、収量250貫、桃6畝25貫、梨は見事なものを採り東京出荷も行われた。

○茶蒔付4反。水田1反を茶園にする。

○印刷所は9月以後休止した。村の本15冊、16冊目は未刊になった。

○薬局をつくり、各種薬品、器具を備える。

○大正15年1月以来、会費の3分の1を村内のためだけに使わず、全会員の財産として貯金し、全会員の為の色々な仕事をする目的で毎月必ず(実篤提案)積立てた貯金、元利とも1,560円余を全額が払い戻し、信用組合の借入1,300円(内800円は水路完成工事のためのもの。)の支払、その他の未払いに充てる。

○2月、帝国ホテル演芸場で新しき村演劇部第1回公演を開く。

1931年
(昭和6年)

○大人18人、子供6人、合計24人。

○水田1町8反5畝、籾120俵。麦2反5畝。9俵。藷1反3畝、400貫、その他、水路修理に毎年多大の労力と資金を要した。

○馬1、母牛1、子牛2。堆肥毎年200貫位。

○鶏48羽「村の卵」は好評で、注文も3分の1しか応じられない。

○梨3反、600貫。桃8畝、60貫。茶は幼園。

○米120俵、麦9俵、芋400貫、排60貫、梨600貫、初茶園、野菜たくさん。

○馬1、牛3、鶏48。4月、6月、11月に新しき村演劇部の公演を行う。

1932年
(昭和7年)

○大人16人、子供9人、合計25人。

○百人時計画として、稲作1町9反、果樹4反1畝、茶園3反5畝、鶏200羽を立派にやって、まず個々の土地で普通の収穫を上げ、それにふさわしい人数が生活し得ることを当面の目標にした。

○10数年たった新しき村が、まだ、自活していない。むしろ、真の経営難が始まっている。これは僕ら村内者の責任である。僕らの決心は段々本物になっている。何故、もっと早く本物にならなかったか。僕らが偉くなさすぎたのだと思う(通信90号、川島)。

○鶏舎12坪(旧合宿を改造して使用)他に飼料舎3坪をつくり、200円の資金(上田提供)で養鶏再建。

○米作1町8反5畝、籾80俵。麦2反5畝6俵、その他。

○馬1、牛1、犢売却25円、産卵鶏200羽。6割産卵。梨3反、1,400貫、桃8畝、80貫。茶幼園。9月高橋信之助茶業研修のため県茶業試験所で3日間の講習を受ける。

○下の城開墾1反。水路の修理。

○鶏糞堆肥1,500貫、藁堆肥、土堆肥1,000貫程度施用。

○米80俵、麦6俵、梨1,400貫、排80貫、初茶園、野菜たくさん。

○馬1、牛1、鶏205。

○5月12日、東京市政会館(日比谷公会堂)で演劇部第5回公演を行う。

1933年
(昭和8年)

○大人14人、子供7人合計21人。

○製茶設備、小型水車(精米用)及びその小屋1坪半できる。

○米作1町6反、籾143俵、麦7俵、芋、野菜その他。下の城開墾2反米は1年分の食用を見て余るようになった。

○馬1、牛1、鶏平均110羽程度、産卵6割。飼料自給のため開墾。

○梨3反、1,700貫、桃8畝、100貫出荷。茶4反、手もみ茶16貫。

○米143俵、麦7俵、製茶16貫(手もみの「村の味」は東京で好評を博した。)、果樹は3割増の増収。

○東京赤坂三会堂で「満十五年祭」が盛大に行われた。

1934年
(昭和9年)

○村人大人14人、子供6人合計20人。

○米作1町6反、籾約160俵、麦、野菜、その他。下の城開墾4反余り開墾地は先ず畑として土つくりをすすめ、やがて水田とする予定。

○馬1、牛、犢1、鶏60、雛100.養鶏は近藤が4月姉弟とブラジルに移民したので、根津が引きついだ。

○2月14日、梨(特に晩三吉)、桃(特に金桃)、は好評で収量も年々増し、村の特産として経済的にも希望を持たせた。茶4反、製茶10貫。手不足で十分な管理を尽くせない。

○この年の経済がどんなだったかは、1年分の個人費が90円9銭月当たり7円92銭、これが約20人分だから、1人当たり小遣いが月40銭ということになる。これで日用品もまかなった。

○1年分の個人費が90円9銭で苦しい経済状態。

○米160俵、梨、桃も前年より増加。

○馬1、牛1、鶏160。

○演劇部6月と9月に公演を行う。

○「東京支部の家」はじまる。

1935年
(昭和10年)

○大人18人、子供8人合計26人。

○荒代かきの住んだ田を川島が念入りに畔塗り、徳丸が畔の草刈り、根津が牛馬の世話堆肥作り等、松本は朝晩の炊事、蔬菜の世話、蔬菜の手入れ作業は根津、徳丸、果樹は高橋、福永、瀬下等が掛り切り、これが皆田植えに合流する。毎日のおやつは根津のとこのお与さんが持って来て皆環座して開く楽しさ(通信124号田植時の村。野井)。

○米作1町6反、籾約140俵、麦、野菜その他。

○馬1、犢1、鶏50。梨4反(蔬菜畑1反を梨園とす。)、桃8畝、茶10貫。

○夜、村の木曜会盛ん。回覧雑誌も盛んだった。

○米140俵、梨4反、排8畝、茶10貫。

○馬1、牛1、鶏50。

1936年
(昭和11年)

○大人16人、子供8人 合計24人。

○最近の野井の10号風景の油絵は素敵な出来だ。今度は静物を2つ頼まれたので、それが描けて金が入ったら、開田の費用に充てようかと云っていた。私も昨日から短編小説にとりかかったが、2,3年のうちには売り出してゆけるつもりでいる(通信132号、川島伝吉)。

○米作1町6反、籾150俵、麦、野菜、その他。

○馬1、牛1、メス子牛生まれる。

○梨4反、桃8畝、茶10貫(野井茶製の講習を受ける。)

村の仕事は後から来た者が、前にいて働いた者の経験と知識を受け継ぎ得ないことが多かったが、果樹は上田、高橋で万端うまく引き継がれた。

○梨4反、桃8畝、茶10貫。

○4月 実篤、横浜より欧米旅行に出発。12月10日帰国。

○この間の特別寄付。桑尾田鶴子100円、実篤400円、増田増蔵30円、東京支部110円、加藤光15円、上田慶之助125円、実篤の画代115円、計885円。

1937年
(昭和12年)

○大人17人、子供8人 合計25人。

○このことの村は月100円単位の金が入ればよいようなっていたが、帰国後の実篤はほとんど毎月150円前後を村へ送った。

○米作1町8反、籾145俵、麦、野菜、その他。

○馬1、石1、梨4反、桃8畝、茶10貫

○野井は村の基礎を確かなものにするために、下の城に開田することを熱心に続きて来たが、水路の用水も余っているので、さしずめ5反歩の開墾をするため、11月から毎月2、30円の開田費を村外に要請。実篤も賛成した(通信149号)。

○米145俵、梨4反、桃、野菜たくさん。

1938年
(昭和13年)

大人15人、子供7人合計22人。

○宮崎県営の水力発電所建設のため、日向の新しき村の1haの耕地が水中に没することになり、東京近郊に新しき村建設のための土地を探すこととなる。

○8月頃県営発電所建設のため、下の城の耕地の水没が避けられない状況なって来、始めは近くに1町歩くらいの開田可能地を得て、新たな前進をはかることを考える。

○9月工事計画が正式になり石河内の同様水没地を持つ農家と共に交渉に入る。戦時中のことで、説明会は強制的なもので、反当時550円の補償要求も高すぎると言われた。村の浸水する土地は田地4反2畝が村の所有地で、他はほとんど官有地で畑5反と、開田した1反6畝程は小作地としての補償だけで、あとの草地や原野は全部営林署の方へ無償で取り上げられることに法律的にはなるのだった。

○<12月4日実篤(上田、後藤同行)来村。県当局や工事請負の熊谷組との交渉を助け、9日は宮崎へ出て、相川知事にも会い、村の人達が熱望した下の城の田の優良表土を全部上の城の田に運び上げることなどを確約してもらった。/p>

○実篤は今後の村について不屈の熱意を語り、東京付近に「東の村」の建設計画を発表する。

○20周年記念祭は内輪に行われたが、祝金810円50銭贈らる。

1939年
(昭和14年)

○川島、野井2家族は、「東の村」建設のため上京。東の村付近に家を借りて毎月村づくりに通う。日向の村には杉山家族が残る。」10月バンガローができる。

○9月埼玉県入間郡毛呂町大字葛貫字下中尾の雑木林地1町8畝(3,200坪)が最初の村の土地となる(実測の結果は約4,000坪)。

○9月17日、川島、野井に実篤ほか支部会員10数名参加開墾式を行う。

○東京の近くへ村を作ろうという話が出た時、皆の心の中には既に用意が出来上がって居り、自ずと道が開けて、思わぬ力も加わって、段々実を結んできた。其の結果運命から与えられた土地としてここが選ばれ、東上線の人たちの尽力もあって、今日此処で仕事始めが出来たのだ(実篤開墾の挨拶より)。

○10月初めから雑木類の伐採、開墾にかかる。10月末最初の建築、バンガロー完成(3坪の三角屋根で休憩所兼道具置き場)。

○11月30日「増田荘」棟上げ(増田増蔵氏寄付、実篤が設計した。物資不足が目立ってきた時代で、特に金物類の調達に苦労した(15坪)。

○第1年の開墾は約5反(1,500坪)で、専門家に頼んだ。

1940年
(昭和15年)

○増田荘に続いて控室(6坪)を建増。よい井戸ができる。

○3月北側入り口(当時正門)に3畝の梅林をつくり、シュロを植える。別に桃苗その他を植えた。 陸稲4畝、甘藷5畝、野菜3畝をつくる。

○山林地9反が増えた(吉良ツル、増田増蔵、実篤購入後いずれも寄付)。

○秋、初めて収穫祭を行う20数人の会員集まる。以後毎年の行事となる。陸稲の反収は低いが、できはよい。

○東京支部から先生や中川、前田その他の人が雑木の伐採のためよく手伝いに来る。

○東京都に「土地の為の会」ができた。「土地の値段は300坪250円で買えるので、1円出せば1坪買えるわけで、皆で1坪でも2坪でも村に土地を寄付することは楽しいこと」であった。

○村、川島、野井一家陸稲4反で10俵。

1941年
(昭和16年)

○川島一家、野井一家の他若い3人が入村。

○新しき村機関誌<馬鈴著>を創刊。

○水田1反6畝を得(多和目仲町)新たに開墾約2反。

○陸稲4反で10俵(玄米以下同じ)他は殆ど前年と同じ。

○新しき村はよくなったが、隣村のためにならなかったでは面白くない。殊に新しき村はよくなっても日本がよくならず、人生のためにならなければなんにもならない。我等が小さい新しき村をよくしたいのも、もっと大きなことに役立つと思うからだ(馬鈴薯「昭和15年8月、日日草より。実篤」)。

1942年
(昭和17年)

○陸稲7反、玄米17俵、甘藷6畝、その他。初めての水田は1反6畝で8俵の収穫であった。

○当時の東の村は人が住み込んでいなかったので、バンガロー近くまで兎が出て来たりした。

○「東の村へ行く日」の会は昭和15年3月24日にはじまり、19年6月25日迄46回で終わったが、延人員420名が戦時下の交通事情の中で参加した。銀座のネオンが15年に消され、18年には街路灯も禁じられたという時代であった(宇野幸子、東の村へ行く日)。

○神田神保町に「新村堂」開店。そのときの実篤筆看板は、いまも残っている。

1943年
(昭和18年)

○川島一家、野井一家、その他1人合計13人。

○水田3反6畝を加えて5反2畝となる(吉良ツル買受後寄附)。

○水、陸稲、甘藷等前年に同じ。

○8月5日から10日間第1回の労働の会、内外の会員が参加して行われる。東の村での宿泊は初めてで、増田荘とバンガローに分宿した。実篤も期間内に3回参加。労働と演説と朗読と楽しい会であった。

○新しき村の絵葉書(8枚組)出来る。

○神田教育会館で村の25周年記念のため記念講演会と村の大会を開く(10月14日)。約100名参加。

○倉田百三逝去。増田荘の寄附者増田増三(81歳)逝去。

1944年
(昭和19年)

○野井一家7人のみ。川島家族9月離村福島に帰る。

○5反2畝の水田に田植えをし、稲刈りをする。村外会員10名が稲刈りを手伝う。

○「うど」の栽培に挑戦したが失敗。

1945年
(昭和20年)

○野井一家8人。

○水稲5反、陸稲、甘藷。

○馬1頭を250円で買う。

○5月、実篤秋田県に疎開。

○8月14日付実篤から野井あての手紙が届く。「同封の為替少々古いから今日中にとらないと無効になる恐れがあります。」と書いてある。

○野井は「秋田の疎開先からの先生から送金とお手紙を頂いている。あらゆるものが欠乏している時、先生はいつも村のことを思って家族の吾々のことを気遣って下さった。いまでも有難さで一ぱいになる。」と述べている。

1946年
(昭和21年)

○大人8人、子供9人合計17人。坂口貫二、根津忠雄一家が入村。

○村の土地は3町2反余、その中水田が5反2畝余、開墾畑が7反、実際に使えるのは5反余。

○農業収入零で、月々の生活費の不足を殆ど先生に仰ぐ状態。

○乳牛「花子さん」購入(先生の贈り物)。リヤカー購入。

○はじめて電灯がつく。

1947年
(昭和22年)

○村人は前年と同じ3家族。

○5月、水稲27俵、麦3斗5升。

○上野美術館で「第1回新しき村美術展」を開く。

1948年
(昭和23年)

○村人は前年と同じ3家族。

○11月、新しき村を財団法人とする。

○新しき村30周年を祝う会を共立講堂を満員にして開催。

○水稲25俵半、陸稲2俵半、甘藷1,200貫、馬鈴薯250貫、大麦2斗、小麦6斗、農業はすばらしく前進。

1949年
(昭和24年)

○4月、大人9人、子供8人、合計17人。

○9月、月刊<新しき村>を復刊。

○埼玉県新しき村「東の村満十年を祝う会」を東の村にて開催。

1950年
(昭和25年)

○大人7人、子供5人合計12人。

○12月、野井家族離村、1ヶ月ばかりの間村内は5人となる。

○水稲21俵半、陸稲6俵。

○麦4石8斗、芋種5斗、甘藷1,300貫、馬鈴薯300貫。鶏170羽総産卵数13,730個

1951年
(昭和26年)

○大人9人、水稲33俵。

○15坪の鶏舎が建ち、鶏が160羽、産卵数1万3千個を超える。乳牛2度目の分逸、果樹園の計画も着々と進む。新しき村が無限に成長出来る基礎が生まれた年。この年離村する人が永見七郎さんに是非動いてもらいたいと言い残した言葉「村の土地はひどくやせるどころかかるい。開墾しても畑になりそうにない気がする。だが、渡辺さんががんばっている限りは大丈夫だ。渡辺さんは、こつこつと1メートル以上も深く堀り、そこへゲ鶏糞などの肥料をぶちこむ。まるで肥料の層を作っているのです。だから立派に作物ができる。驚きました。恐れ入りました。」渡辺貫二の努力は知る人ぞ知るのだ。(永見七郎)

○神田共立講堂で「新しき村」満33年祭公演。講演:亀井勝一郎、長与善郎、武者小路実篤 /演芸:轟由起子、滝沢修、宇野重吉ほか。

○芸術院会員に再選。

○実篤、文化勲章を授与される。三鷹市名誉市民の称号を贈られる。

1952年
(昭和27年)

○大人10人、少年1人合計11人。

○水田34俵半、陸稲5俵半、麦17俵半、甘藷1,500貫、馬鈴薯300貫、芋種4石、鶏230羽、作業場、倉庫、炊事場、食堂を合わせて45坪完成。

○8月1日~3日間労働祭がおこなわれ毎年行われることになる。労働祭の歌ができる。

1953年
(昭和28年)

○12人。

○水稲不作で22俵、大麦3石6斗。小麦7石、芋種は1石、甘藷2,000貫、馬鈴薯300貫、鶏舎15坪増築、鶏290羽、牛1頭購入。

○新しき村誕生35周年祭を東の村で行う。「この道より我を生かす道なしこの道を歩く」の詩柱建立。

○アングルと鉄線で牛舎につづけて88坪の半永久的放牧場を作る。

○角川源義氏女子寮(3室12坪弱)を寄附。

○水道設備が完備。

1954年
(昭和29年)

○この年3反を開墾し、新しく木田1反、雑木材4畝を購入、水田8畝、畑1反5畝借地。取り470羽、バタリー飼育のめどがつく。

○文壇画壇35氏発起による古稀祝賀会、東京会館で開催。

○実篤、京王線仙川の近くに泉と池のある土地を買う(北多摩郡神代町入間468番地・現実篤公園)

○新しき村36周年祭(東の村15周年)挙行。東の村の名称を廃し「新しき村」と呼ぶ。実篤から川島伝吉に名誉村民第1号が贈られる。

1955年
(昭和30年)

○11月、11人。

○米55俵、廿藉24数貫、鶏689、牛2。第二作業所(建坪33坪、中2階22坪。牛乳処理室、サイロ4基を含む。)を作る。

○桃園など立派に育ち「村の桃」として出す。梅・李・ぶどう・柿・りんごも収穫。茶の新種「やぶきた」350本新植。

○仙川の新居に転居(山口芳春設計)

○「新しき村40周年記念祭」を九段会館で開催。

○名誉村民・川島伝吉逝去。

1956年
(昭和31年)

○14人。

○全耕作地2町2反、宅地農道等約3反、雑木林、竹林、松林などで約1町5反、建物9棟で約200坪。

○鶏700羽、桃1万個以上収穫。

○普通現金合計収支共203万円。

○村民宇野幸子の寄附により納骨堂である「大愛堂」建立。

1957年
(昭和32年)

○渡辺家族、高橋、加勢、樋口、修、水谷、加藤、関口、小池、友竹、森田哲郎。

○米42俵、仔豚2頭入村。「花子」●●7回目の出産。鶏1,573羽。

○実篤寄附の12坪の家を取り壊し、3畳2間とアトリエ式8畳の3室を作る。

○普通現金合計収支共253万円。

1958年
(昭和33年)

○大人13人、子供1人、合計14人。

○桃園地側の8畝の土地を得て開墾。

○新しき村自活達成。

○鶏2,542羽。

○普通現金合計収支412万円。

○月刊<新しき村>を<この道>に改題。

○実篤は、「この上は益々新しき村らしい自活方法を考え、村のゆき方の本当上を益々はっきりさせてもらいたい」と記している。(新しき村昭和33年2月号)

○創立40周年新しき村祭を●●祭のとき行う。普通現金会計収支共412万円(うち農業収入333万円。村外会費11万円。●●会費39万円)

1959年
(昭和34年)

○大人19人、子供1人合計20人。

○村外会員416名。

○毎月のように鶏舎の増築や、養鶏の為の設備が増えていった。また一方、杉皮屋根の建物が瓦ぶきになり、着実に村づくりが進んだ。雨の多い年で、台風の襲来もあったが、盤石の基礎はもうゆるがない。

○山林7畝余(平地林の一部)、畑1反5畝(離れた処)買受。

○旧鶏舎30坪改造、22坪と20坪を新築。年末産卵鶏2,255羽。年間養鶏所得190万余、生活費74万余。

○第2作業所内に酪農用のサイロ(10尺)を増設。

○梅苗94本を新植、開村当時の梅を植えた北側傾斜地を含む約2反歩。

○耕馬(三郎)病死、仔牛針金をのみ、2度の手術で助かる。

○雑木林5反歩開墾牧草を播く、内3反歩は新たに購入した土地である。

○男子独身寮(木曜荘)新築、2室で5坪余、大半が東京支部の寄付。

○増田荘控室から第一作業場まで廂を増築し事務所とする。

○和風荘に2坪半の廂を増築し事務所とする。

○収益の大半が養鶏から出るようになり、安定度も高いので、自ずと養鶏に主力が傾いていった。この年の現金出納収支とも573万円余の内452万余が養鶏収入であった。

○8月村の土地、全部で4町3反許り。耕地1町7反余。宅地道路約1,200坪。他山林等2町歩

○村で一番欲しい土地860坪が20万円で買えた。18万円は先生が引き受けられ、その他経費が1万円かかるので、寄附できる兄妹は寄附をお願いしたい。(渡辺貫二)

○金合計収支共573万円現

1960年
(昭和35年)

○5月、大人17人、子供1人、合計18人。

○自活3年目、人が増えることで益々安定に向かう。独力と協力の調和のことをのみこみ前進する。

○電灯が入ってから15年ぶりで待望の動力線が入り電力活用の道開く。

○第2作業所のジーゼル発動機を三馬力の新型モーターに取り換える。

○大さんの井戸を白樺荘北東に掘り、モーターポンプをつける(水量豊富)。

○鶏舎に自家水道設備をし、茶畑潅水用水道管55米を施設する。

○貯水槽(約13立方米、70石弱)を和風荘南の牧草畑際に完成。六角井戸の排水、牛舎の改良便槽につなぎ、牧草地の潅水用に使用。

○4月第2花子二度目のお産(メス)8月柳川に2度目のお産(オス)。今までと逆にメスの出産が続き始めた。

○耕馬入村。茶園の仕上げ直しをする。

○5月7日。養鶏係待望の一日産卵重量100キロの記録出る(1,800余個)。

○鶏糞乾燥所17坪増設、大雛バタリー8間、初めて二段式をつくる。

○第2角川荘4.5坪角川源義氏の寄付で10月末完成。

○毛呂山町共同育雛所(32坪最高1回6,000羽育雛可能、初生より40日齢迄年間50,000羽配布予定)を村内につくり、10月より、共同育雛開始。この施設は小規模の養鶏農家に役立った。

○11月、中すうバタリー舎、7.25坪完成、1回1,000羽飼養の中雛バタリー出来る。

○文壇・画壇57氏の発起による喜寿祝賀会を椿山荘で開催。650名の参加者。

1961年
(昭和36年)

○大人22人、子供1人、合計33人。

○正面入口南側の山林6反部が売りに出されたのを高橋秀吉氏の好意で村の為に確保できた。

○水田2反2畝部落共同で暗渠排水工事実施。水稲作は熱心な適任者により着実によくなり、一般畑作りは殆ど飼料作物と自家用野菜になった。

○乳牛も5頭搾乳総頭数十頭となり軌道に乗り始めた。

○永年香典の中心になっていた馬(五頭目)を売って耕耘機使用に決め主な作業を終わった11月に馬を売る。

○大雛舎60坪成鶏舎8棟その他を新増設、改善し、1万羽養鶏計画5年目は計画うぃ上回り年末産卵鶏5,400羽余となる。雛1,450羽。

○食堂(謙公会堂)等の建設予定地として、角川荘東側の山林の一部約1反歩を買い受ける。

○この年は村内20人前後であったが、村外会員の応援が目立って多い年であった。

○現金出納収支とも1,249万円余(内営農収入1,007万余。)

1962年
(昭和37年)

○25人。

○外からの建築費の借入、自力返済が可能となり、会員の寄附は土地の資金に集中。土地・建物増え、地域の農業展に積極協力。

○鶏9,477。総産卵量63,300kg(1,209,012個)。

1963年
(昭和38年)

○8月、8人の新入村者を迎え30人。

○11月、土地は借用を含め約6町歩。建物は60棟をこす。

○日向新しき村が財団法人となる。

○新しき村45周年記念祭を共立講堂で開催。

1964年
(昭和39年)

■◇

1965年
(昭和40年)

○40人。農業収入4,909万円。農外収入122万円。

○実篤が考えた村が、真の新しき村になるための基礎が出来た年である。

○5月、東京都より名誉都民称号を贈られる。満80歳祝賀会を上野精養軒で開催。

○新しき村に50周年記念碑が建つ、村内に「仲良し幼稚園」開園。

1966年
(昭和41年)

○44人。収入5,481万円、建物約100棟、鶏2万6千、土地買受と借地で2Ha取得。

1967年
(昭和42年)

■◇

)1968年
(昭和43年)

○50人。収入5,772万円。(内営農収入5,419万円)他営農費4,312万円余建設費1,200万円余

○4月、新しき村に50周年記念碑が建つ、村内に「仲良し幼稚園」開園。

○8月、新しき村公会堂落成。日向新しき村のある木城町で記念碑2基を除幕。

○11月、「新しき村50周年祭」を文京公会堂で開催。

1969年
(昭和44年)

○日向新しき村に50周年記念碑が建つ。

1970年
(昭和45年)

■◇

1971年
(昭和46年)

■◇

1972年
(昭和47年)

○米寿祝賀会を丸の内・東京会館で開催。文壇・画壇、新しき村会員など数百名参会。この年椎茸つくりが本格化。

1973年
(昭和48年)

○55人。幼稚園40人。

1974年
(昭和49年)

○新しき村の機関誌<この道>を創刊時の<新しき村>と改題。渡辺兼次郎、窯を自製し、泰山窯と命名。幼稚園にプールを作る。

1975年
(昭和50年)

■◇

1976年
(昭和51年)

○4月9日、実篤死去。

○10日、近親と新しき村の会員により、仙川の自宅で密葬。

○24日、青山葬祭場で無宗派の葬儀を挙行。葬儀委員長は梅原龍三郎、里見弴、中川一政の3名、会葬者1,500余名。

○8月、東京都調布市若葉町の自宅並びに愛蔵品は調布市に、近代美術品・文学資料は東京都に、一部は新しき村、三鷹市等に、それぞれ寄贈。

○11月、松田省吾が日向の村へ移る。

1977年
(昭和51年)

■◇

1978年
(昭和53年)

○60人。総収入2億5,868万円余。(内営農収入2億26万円余)

○浦和市埼玉会館で60周年記念展美術館建設を決め、寄附募集に着手。

○調布市実篤邸を実篤公園として開園。

1979年
(昭和54年)

○57人。

○町営水道が八高線側から細いパイプでしか来ていないために水の出が悪く百ミリ本管工事を町に申請(費用一切村負担)、毛呂山台団地から借家の水田を通り第二の丘集卵所近くまで約400米を百ミリ管を引き非常消火栓を設備する(貯水池の代わりをする。)。工事費負担その他で300万余。水使用の不便ほぼ解消。

○水田3.7ha。収量270俵16,25㎏。

○泰山窯は益々好評で完全に村の名物になった。作者は大車輪の活動だけがまだ養鶏の仕事から解放されない。年度内に千数百点が売れ二百六十八万余になっており、十分人1人専門の仕事に成っているのだが。檜植付の山林(公会堂北側)3,363㎡を檜と共に永久借用、内1,000㎡整地、美術館を建てる。建設基金の集まりも良いので、5月12日実篤作品23点も寄贈される。

○収入総額二億8,934万余(内借入れ金4,167万)内営農収入2億3,703万円(農作物264万余、茶99万余、果樹430万余、椎茸479万余、酪農413万余、養鶏2億2,053万余)。

○6月美術館建設用地借入契約成立。中島豊作氏の

1980年
(昭和55年)

○11月、61人。

○丘の北側の水田を主とする2ヘクタール(村の水田40アールを含む。)の共同耕作地整理事業に協力実施。

○美術館起工式は4月13日花の会合同慰霊祭の当日実施。雨になったが40名からの関係者が出席。式後懇談会。第3次建設趣意書(最終実施計画)が出来、各方面に配布基金及び作品の寄付募集を進める。鉄筋コンクリート建築も考えられたが、檜の自給力と実篤作品との調和等を考え木造と定る。

○木曜荘を取り壊し、13坪余りの新築成る。満開荘、この道荘改築、その他屋根葺替等住居改善も進む。

○11月24日美術館落成開館式。建設関係者。基金寄附者(1万円以上)等400人近くに案内状を出し200人近くが出席。祝辞は知事代理、下田町長、武者小路辰子、村本達郎(地元代表)、感謝状は地主中島豊作ほか工事関係者20名。建物は木造り和風260㎡(倉庫部分は鉄骨耐火)直接経費約4,000万、関連経費共5,000万、寄付総額はこの日2,000万に達し、毛呂山町は500万を内定それに県補助を加える。

○収入総額3億2,927万余(内借入1,500万)、内営農収入3億291万(農産物248万余、茶185万余、果樹419万余、椎茸558万余、酪農351万余円、養鶏2億8,527万余円。)。

1981年
(昭和56年)

○3月、61人。武者小路実篤記念・新しき村美術館開館。東鶏舎の改築工事完了。ピアノ教室はじまる。

○念初美術館所蔵作品総点数306点。実篤核96油絵15日本画143点主な愛蔵書画18陶磁器等12点その他の作家の諸作品26点。

○3月東新鶏舎の改築工事完了。

○開館以来5月迄の美術館入館者(除招待)4,636人、入館料84万、領布品収入88万6,332円。人件費を除き十分経費をまかなえる予想以上の成績で図書館の美術書の充実くらいはできそうである。6,7月はかなり閑散だったが、8月より回復、年間平均月800人前後になるか。

○幼稚園のピアノと会場を使って寺島美穂が(入村前の経験を生かした。)ピアの教室始まる。当分村の仕事の都合で週1回だが、将来は増えそう。

○7月渡辺兼次郎(泰山窯)三越個展、8月いづみ画廊展例年通り。

○8月労働祭枝垂桜(上田慶之助寄付)の棚つくり、大愛園東山林455㎡を小公園的な休憩所とし「櫟の森」と名付ける。

○住宅2棟建築進捗中、なん内に他に2棟を新築する予定。

○9月の63周年記念祭は久しぶりで雨に見舞われたが、幼稚園関係バザーは雨の中変わらずの盛況、午後公会堂で「だるま」を村内会員で、幼稚園は園児が少ないので母と子総出演作自演の「鈴蘭の鐘」石川杉子と門下生のバイオリン、渡舟中心の歌と踊り等で賑わった。

○農事残飯も好調に推移し、特に養鶏は昭和24年10羽で開始以来の好調で1羽当たりの年間2,000円以上の所得を見、総所得で1億を越す。

○総収入、3億8,900万円農業収入3億5,100万円(農産物151万茶188万果樹633万椎茸613万酪農465万養鶏3億3,000万(主な農産物収量。水稲1万4,520㎏茶497㎏梅1万6,000㎏椎茸5,464㎏牛乳2万5,000㎏鶏卵1,529万8,148個97万余㎏。)。

○11月、創立記念祭は調布市東部公民館に集まることに決まる。

○12月、「埼玉新しき村の会」誕生。日向の村の農業のために農業基金をおくる運動がはじまる。

1982年
(昭和57年)

○56人。

○2月12日野井十逝去。6月号を追悼号として特集、28名執筆。

○公の年金の受給を受ける年齢の者が出て来たので、種々検討の上、年金は金額を村の収入(特月会計)に入れ、一生の間働くものと同じに個人費等を出すことにきめる。

○女の人の入村に備え3人分の寮を新築、落ち「山百合荘」と名付ける。

○4月花の会では野井十の大愛堂納骨式、公会堂と増田荘で、野井、川島二人の回顧展を開く。

○渡辺京鼓高校を卒表、毛呂病院の看護学校に入学。前年高校を終えた樋口篤郎と渡辺梨花は東京の学校へ通学中。朝日武は中学1年生、渡辺一成は小学4年、朝日美和は3年、鈴木靖子は高校2年で通学。

○4月29日新男子寮「新進荘」の完成祝をする。

○10月村内合同の一泊旅行を箱根の彫刻の森を中心に行う。

○50周年記念碑「心愛に満つる時」をブロンズに変える。

○11月14日64周年記念祭を久しぶりで村で行う。好天にも恵まれ、NHKの取材もあり、行事も多く盛んだった。

○総収入3億1,600万。農産物の主な収量。水稲12,750㎏、茶584,7㎏、梅1万千㎏、椎茸8千百㎏、牛乳1万8,000㎏、鶏卵92万2,935㎏、1,454万7,005個。

1983年
(昭和58年)

○61人。総収入3億348万円余(内営農収入2億8,584万円余)。

○住宅の新改築が進む。

1984年
(昭和59年)

○3月、61人。「仲良し幼稚園」が閉園。

○5月、生誕百年「武者小路実篤と白樺美術展」が池袋西武美術館で開催。

1985年
(昭和60年)

○65人。「新しき村美術館」の巡回展を、1月、甲府、仙台、3月、松本、5月、宮崎で開催。9月、新しき村生活文化館(作業所、美術展、資料展などに使用)完成。

○10月29日、武者小路実篤記念館が開館。日向の村は稲作が実績をあげて注目される。

1986年
(昭和61年)

○61人。

○生活文化館(略称、生活館)へ移管後も整備を続け一応完成。レオナルド、ミケランジェロ、レンブラント、セザンヌ、ゴッホ、ルオー、ピカソらを中心に、数十年来我々の精神の糧になってきた名画100点余りとそれらの作家の画集類を、年中無休で無料公開、同時に泰山窯のやきものや会員の作品を展示する。

○泰山窯の作品が生活館に移ったので、「一成堂」を整備して会員作品の常設小展示場とする。

○1月2日~6日長岡市の大和百貨店で5回目の「武者小路実篤展」を開催。15日吉良鶴さんの遺品として武者小路先生の作品100点余と貯金残が遺族から寄贈された。

○前年から販売用の野菜作りの仕事始めたが、目下人員減で担当者は苦労している(直販の評判はいい。)。

○6月には久しぶりに坂下夫妻が日向の村に入る。浸りの家、食堂、バンガロー等が続いて建つ。米作も益々好調。

○仕事は全般すこぶる好調、養鶏飼料の値下がりで、今年の慮録は養鶏始まって以来の記録になりそう。美術館も生活館も変わらず心ある人に喜ばれている。

○一般会計収入(前期繰越を除く。)3億1,613万余。内一般農作物2,535万余(内椎茸1,148万余、果樹714万余)。養鶏2億7,550万余(内所得1億941万余)卵150万個余(1羽当308個)、959万㎏(1羽当19.6㎏)農産物収量。水稲329,5俵19,770㎏、製茶348,9㎏、梅1万6,350㎏、椎茸11,077㎏、牛乳25,022㎏。

1987年
(昭和62年)

○61人。営農収入2億2,390万円。

○7月。新住宅2戸分完成。棟続きだが1戸分8、6、6帖そのほかをとり、今後の新築住宅の標準として皆で研究したもの。

○8月。労働祭例年通り。9月新しき村生活と美術展、生活館で1ヶ月間、第3日曜日は創立記念祭。10月収穫祭、11月東京で創立記念会(調布市東部公民館)その他の諸行事例年通り。

○10月計分処理の万全をはかるため50坪の集積所をつくる。

○日向の村の稲作1ヘクタールを越す。旧住宅改修。諸設備改善「無心」の碑建つ。村外会員も増え、宮崎支部発足。

○一般会計総収入(前期繰越を除く)2億3,762万余。内一般農産物2,529万余(内米357万個余、茶147万余、果樹800万余。椎茸1,007万余、野菜216万余)。酪農330万余。養鶏1億9,531万余(内所得5,292万余。)やきもの704万余。農産物収量、水稲401俵2万4,060㎏。

○若い人の入村が少なく、村内平均年齢が40歳を超え、村野老人対策として「老年対策基金」をつくる。

○5月、所沢西武百貨店で「新しき村館展」開催。

○9月、オックスフォード大のベン・ジョーンズ、村での1年間の生活を終え、離村。以後、彼の後輩3名の生活をする。

○11月、小学館版『武者小路実篤全集」全18巻が刊行開始。

1988年
(昭和63年)

○53人。総収入2億3,310万円。土地10ha。借地5ha。建物88棟。

○村は70年代の幕開け。それを祝うかのように、県道から村の入り口まで、道路拡張工事が昨年から行われ、3月に完成。大型車のすれちがいも可能となる。

○養鶏業界は策円に続き未曾有の卵価低迷8月まで続く。8月までの村の手取り卵価計でK当たり、123円。養鶏の方は大減収。しかし、やきもの、梅、椎茸による収入が好調。生活費に不足をきたすことはなかった。個人費も3万円になり、夏冬の特別個人費も合計で10万円支給。自活は不動だった。

○泰山窯は年に10以上の展示会が開かれ好評、その他直接注文多し。

○5月、実篤先生生誕103年祭、調布市東部公民館。8月、新企画で元気に労働祭。9月、村内での創立70周年記念祭。10月、収穫祭。「新しき村70周年記念特別公演」を毛呂山町福祉会館で30日間開催。70周年ということで朝日、読売、毎日新聞などでとりあげてくれたので入場者約300名、美術館も団体なしで200人を越す入場者があった。11月、新しき村創立70周年記念会、調布市東部公民館、等催す。

○70年の間に村の生活をした人に記録を調べたら375人だった。村外会員の延べ人数は判らないが、或時期の記録としては800人余が最高だが、実際には現在の700人許りというのが最高だろう。

○10月、理事会で新理事長に渡辺貫二選出(昭和23年財団設立以来理事長武者小路実篤、上田慶之助、常務理事渡辺で40年間対応。)。

○日向の村、40坪開田、稲作総面積1町1反6畝となる。直播栽培も一部始める。山羊、アヒル、チャボ等坂下飼育。

○一般会計総収入(前期繰越除く。)2億3,310万余。内一般農産物2,747万余。内果樹1,017万余、椎茸1,105万余。酪農274万余、養鶏1億8,221万余(内所得4,213万余約23%)、やきもの1,033万余。農産物収量水稲作収量水稲348俵20,880㎏、茶青葉1,064㎏、梅13,500㎏、椎茸1万22㎏、牛乳2万1,006㎏、鶏卵1,527万3,911個(1羽当311個)、97万3,075㎏(1羽当たり19.8㎏)。

○正味財産。合計3億9,035万余(一般会計1億6,236万余、土地1億6,146万余、美術館6,653万余)。

○土地総面積。61筆944,1アール。

○建物。88棟、2万449,5㎡(6,196,8坪)。

○借入金1,148万7,000円(農業制度資金のみ。)通常の経過未払常時2,000万余。

○未曾有の卵価低迷が8月まで続く。

○10月、新理事長に渡辺貫二が選出される。

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